「幸せの総量を増やす」ために。被害者支援と対話の力で、法の現場を更新する法律事務所の挑戦
鮫島法律事務所 代表弁護士 鮫島 千尋 氏
「法律事務所」と聞くと、法廷で争う姿を思い浮かべる方が多いかもしれません。けれども今回お話を伺った鮫島氏は、事件をただ勝ち負けで終わらせるのではなく、関わる人それぞれにとっての“よりよい着地”を模索する姿勢を大切にしています。事務所の理念は「幸せの総量を増やす法律事務所」。とりわけ犯罪被害に遭われた方の支援に力を注ぎながら、交渉理論やコーチングの知見を実務に取り入れ、さらに大学院での研究や講師活動へと展開。個人依頼中心の業務を土台にしつつ、今後は中小企業支援や専門家連携の体制強化にも取り組んでいくといいます。法務と対話の両輪で社会課題に向き合う姿勢と、その先に見据える未来について伺いました。
目次
「幸せの総量を増やす法律事務所」――被害者支援を軸に考える
——事務所の理念について教えてください。
私の事務所は法律事務所として弁護士業務全般を扱っていますが、その中でも特に力を入れているのが、犯罪の被害に遭われた方の支援です。理念として掲げているのは「幸せの総量を増やす法律事務所」。
この理念でいう「幸せの総量」とは、依頼者の利益を守るのはもちろん、相手方にもできる限り無用な対立や傷を広げない形で解決できるなら、それが社会全体にとっても望ましいという考え方です。
さらに、私自身や事務所としても、納得して取り組める案件であることを重視しています。単に受任件数を増やすのではなく、理念に沿って事件に向き合うことを大切にしています。
被害者支援に注力している理由は、被害に遭われた方は、心身ともに大きな負担を抱えていることが多く、まさに「幸せではない状態」が顕著だからです。だからこそ、弁護士としての専門性を使って、そこに具体的な支えを届けたいと考えています。
——被害者側の弁護が必要とされる背景には、どのような課題がありますか。
実務上、加害者側には制度上の理由も含めて弁護士が付く場面が多い一方で、被害者側が弁護士を付ける発想が十分に浸透していない現実があります。被害者の方ご自身も、「自分が弁護士を付ける」という選択肢を持っていないことが少なくありません。
その結果、加害者側弁護士からの連絡内容が自分にとって適切かどうか判断できない、警察や検察に個別の生活課題まで相談できるわけではない、という状況に置かれやすくなります。
警察・検察は刑事処罰のための機関であって、被害者の代理人ではありません。だからこそ、被害者側に立って法的整理と交渉対応を担う存在が必要です。
実際、被害者支援に関する相談では、ようやく探し当てて来所される方が多いという実感があります。検索しても加害者側の情報が多く、被害者向けの窓口にたどり着きにくいという課題が続いているためです。
——扱う案件の傾向についても教えてください。
被害者側支援を強みとして打ち出していますが、事務所全体としては一般民事も扱っています。全体の比率でいえば、被害者側案件はおおよそ2〜3割程度です。
被害者側のご相談では、性被害に関するものが多いです。この領域では、被害者ご本人が加害者側と直接やり取りする負担が非常に大きく、刑事手続や裁判対応への心理的ハードルも高いです。
そうした中で、弁護士が代理して交渉・調整を担う意味は大きいと感じています。全国から相談が来ることもあり、地域をまたぐニーズの高さも実感しています。
「独立」と「言語化」――キャリアの転機で定まった軸
——経営者として歩み始めたきっかけを教えてください。
弁護士になって最初の3〜4年ほどは、他の法律事務所で勤務していました。もともと、どこかのタイミングで独立し、自分の理念と判断軸で事務所を運営したいという思いは持っていました。
独立の背景には、被害者支援に力を入れたいという方向性に加えて、「できる限り裁判前の対話で解決する」という志向がありました。私は、法的正しさだけでなく、当事者にとっての実質的な納得や、その後の人生への影響まで見据えて解決を設計したいと考えています。
独立の時期としては、当時担当していた事件の区切りや、現在の事務所物件とのタイミングが重なり、3〜4年目の間に決断しました。現在は、独立から7〜8年目に入る時期です。
——7〜8年を振り返って、ターニングポイントは何でしたか。
大きかったのは、所属していた弁護士向け団体や勉強会での出会いです。講師として登壇されていた先生方の話や、弁護士向けコンサルタントの方との対話を通じて、「自分は何に最も力を入れたいのか」を言語化できたことが転機になりました。
——交渉やコーチングを学ばれた背景について教えてください。
もともと私自身、交渉を得意だと思っていたわけではありません。むしろ苦手意識があったからこそ、必要性に迫られて学び始めました。そこから交渉学やコーチングに触れ、さらに大学院で紛争解決学を学び、論文を書いて修了しています。
実務での変化は明確でした。法的手段の提示だけでなく、「この人は本当は何を守りたいのか」「1年後、3年後にどうなっていたいのか」という将来志向の対話を重視するようになりました。
トラブル時は、目の前の怒りや不安が強く、本人も価値観を言葉にしにくいものです。だからこそ、対話を通じて価値観を整理し、ゴールを具体化し、そのゴールに沿った解決手段を選ぶ。これが結果的に、依頼者にとっての納得感や再発防止にもつながると考えています。
法的に可能なことと、その人にとって最適なことは、必ずしも一致しません。そのずれを埋めるのが、交渉とコーチングの知見だと感じています。
少人数運営の強みと限界――組織の現在と課題
——現在の組織体制と、運営上の特徴を教えてください。
現在の体制は、弁護士が私1名、事務局が1名の少人数です。意思決定が速く、理念に沿った判断をブレなく実行できるのが強みです。案件対応においても、方針の一貫性を保ちやすいと感じています。
一方で、相談件数が増えるなかで、物理的に対応しきれない場面が出てきているのは課題です。とくに被害者支援の相談は継続的に寄せられるため、すべてに十分な形で応える難しさがあります。
お断りせざるを得ないケースが生まれることは、実務上の悩みとして常にあります。
——弁護士を増員する選択肢については、どのように考えていますか。
一般論としては増員の選択肢もありますが、現時点では「事務所内に弁護士を雇用して増やす」という発想は強くありません。物理的スペースの制約もありますし、私自身の働き方や事務所運営の志向として、少人数で柔軟に動く形が合っているという認識です。
ただし、大きな案件や負荷の高い案件では、信頼できる外部の弁護士と協働することはあります。つまり、固定的な内部拡大より、必要に応じた連携で品質を担保する方向です。価値観や問題解決の姿勢を共有できる相手と組むことを重視しています。
——現在のもう一つの課題は何でしょうか。
被害者支援は社会的意義が大きい一方で、案件の性質上、継続課金型のビジネスになりにくいという構造があります。単発案件が中心になりやすく、経営の安定性を考えると、一定の法人顧問や中小企業支援の比重を高める必要があります。
私が学んできた交渉・コーチングの知見は、被害者支援だけでなく、経営者支援にも応用可能です。したがって今後は、理念を保ちながら、企業向けの継続支援にも力を入れていくことが、事務所運営上の重要テーマだと思っています。
被害者支援の認知を広げ、連携で支える未来へ
——今後5年・10年の展望を教えてください。
被害者支援の領域で、相談先としてまず想起される存在になることを目指しています。現状では、被害者支援の認知がまだ十分とはいえず、弁護士間でも紹介導線が強固ではありません。
将来的には、被害者支援が必要な場面で「この事務所に相談すればよい」と自然に届く状態をつくりたいです。そのためには、実績の積み上げと情報発信の両方が必要だと考えています。被害者支援に関する発信(たとえば書籍やブログ等)も、選択肢の一つとして認識しています。
——実務面で挑戦したいことは何ですか。
被害者支援をより実効的にするには、法的支援だけでなく、心理面や生活面を含めた総合的支援が不可欠です。たとえばDV被害のケースであれば、避難先や住環境の問題など、法律だけでは完結しない課題が発生します。
そのため、将来的には多職種とのチーム型支援を強化したいと考えています。弁護士単独で抱え込むのではなく、必要な専門家と連携し、当事者の回復と再出発を支える体制を整えることが目標です。
また、地域をまたぐ相談にも対応しやすいよう、全国の弁護士ネットワークとの関係づくりも重要だと見ています。各地域で信頼できる支援者につなげられる導線ができれば、被害者側支援全体の質を底上げできます。
——AI時代の弁護士業務についてはどう見ていますか。
AIの活用が進むこと自体は歓迎しています。リサーチや文書作成など、効率化できる領域は積極的に取り入れるべきだと思います。
ただ、対人の紛争解決においては、当事者の感情の機微、場の温度感、本人の事情を踏まえた調整が不可欠です。そこは現時点で、人間の専門職が担う価値が大きい領域だと捉えています。
むしろ今後は、若手弁護士ほど、AIで代替されにくい交渉力・対話力・関係調整力を磨くことが重要になるはずです。私は大学院で講師として交渉学を教える機会も得ており、実務と理論の往復を通じて、こうした力を普及させる役割も果たしていきたいと考えています。
学び続けることが、実務を更新する――仕事外の取り組み
——リフレッシュや学びの習慣について教えてください。
仕事外でも、学びの時間を継続しています。現在は「経営心理士」に関する講座を受講しており、土曜日などに学習を進めています。中小企業支援に生かせる内容で、半分は趣味のような感覚もありますが、実務との接続が強い学びです。
こうした継続的なインプットは、被害者支援・企業支援のどちらにも有効です。法知識だけでは解けない課題に向き合うためには、人の意思決定や心理、対話の構造への理解が必要であり、その視点を更新し続けることが、結果として依頼者への提供価値を高めると考えています。
——経営者やこれから起業する方へのメッセージをお願いします。
私自身の経験からお伝えすると、最終的に重要なのは「自分の価値観をどこまで言語化できるか」だと思います。事業を進めると、日々トラブルや葛藤が起きます。そのとき、判断の軸が曖昧だと、短期的な対応に流されやすくなります。
反対に、自分が何を大切にし、何のためにその仕事をしているのかを言葉にできると、迷いの中でも意思決定の質が上がります。いきなり完璧に言語化するのは難しいですが、内省を重ねることで少しずつ輪郭が見えてきます。
実際、私の周囲の経営者の方々を見ても、自分の思いや考えを言葉として語れる方ほど、行動に一貫性と推進力があります。理念を掲げるだけでなく、日々の実務と結びつけること。その積み重ねが、組織と個人の未来を形づくっていくのだと思います。