1対1の対話で復職支援の詰まりをほどく――阿久澤氏が描く「チルログ」の挑戦と展望
株式会社チルHR 代表取締役 阿久澤栄里子氏
人事歴は約10年、直近5年は経営陣のすぐそばで組織づくりを支えてきた阿久澤栄里子氏。そこで突き当たったのは、「このままの自分では、事業の成長ドライバーをひく人事にはなれない」という現実でした。悔しさを原点に、阿久澤氏が選んだ挑戦が、休職者支援に特化したサービス「チルログ」です。休職中の本人と丁寧に面談し、状況を企業へ共有する。予防が主流の健康経営の流れとは異なる、あえて“すでに休職している人”に向き合うアプローチには、どんな意思があるのか。休職をオープンにし、再休職を減らしていく未来像まで、率直にうかがいました。
目次
起業のきっかけは「人事」の限界に悔しさを覚えたこと
――まず、どんな思いで事業を始められたのでしょうか。
昔から「起業したい」と強く願っていたわけではありません。むしろ、ビジョンがある人のサポートをしたいというタイプだったので、スタートアップで経営陣と近い距離で人事(HR)をしてきました。やりがいもありましたし、自分に合っている感覚もありました。
ただ、人事として働くほどに「結局は事業成長次第だ」と痛感する場面が増えました。事業が伸びて組織が大きくなるから、課題も生まれる。そこで人事ができることは多い一方、事業が伸び悩む状況のときに、人事がV字回復させるほどの力を発揮できるかというと、私自身の力不足を感じ、悔しい思いをしたんです。
だからこそ、「自分も事業を何とかできる人間でありたい」という思いが膨らみ、起業へ踏み出しました。起業テーマも、最初からHR領域に決めていたわけではありません。育休中に起業家家育成プログラムに参加し、子育てやファッションなど身近な課題も含めて幅広く検討しました。ただ、調べれば調べるほど、日常的な課題はすでに多くのプレイヤーが動いていて、私が参入する必然性が見えにくかったんです。
その中で、私が最も深く潜ってきた人事領域には、まだ解像度高く捉えられていない課題が多いと気づきました。採用は予算も大きく競合サービスも多い。そこで競うより、まだ気づかれていないけれど困り度が深い領域はどこかと考えたとき、私自身が経験してきた「休職者対応」に行き着きました。情報も少なく、現場の負担も大きい。ここを深く掘ることにしたのが今の事業の出発点です。
休職者に寄り添う「チルログ」
――現在の事業の特徴や強みを教えてください。
チルログは、休職中の方に対して、人事や上司の代わりに面談を行い、その状況を企業に共有するサービスです。企業の健康保険スタッフや健康管理室の方にお話すると、「いろいろ提案されるけれど、こういうサービスは聞いたことがない」と言われることが多いです。
もちろん、メンタル相談窓口やストレスチェックなどのサービスを通じて、健康経営の支援をする会社がオプション的に休職者の面談を対応するケースはあるようです。ただ、「休職者対応」をメインに掲げている会社は、ほとんどないと感じています。
休職率は平均で0.5%程度とも言われ、1,000人規模なら5人。それなら従業員全体にサービス提供した方が市場は大きく、未然防止の方がよい。そう考えるのは自然なことです。
でも私は、すでに休職してしまった方にフォーカスした方が、その人に沿った支援ができると考えています。予防の取り組みを否定するのではなく、「いま困っている人」に対して、ちゃんと届く支援を作る。このような考え方でターゲットを絞っています。
「人事戦略上において、人を数字として見ない」――誠実さを経営の判断軸に置く
――経営判断の軸になる価値観は何でしょうか。
私の強みは、1対1のコミュニケーションだと思っています。人事の仕事はカバー範囲が広く、いろいろな専門性が存在する職種ですが、私の場合は特に、「一人ひとりと向き合う姿勢」「人に対する愛情の深さ」を評価していただくことが多かったんです。休職者はとてもセンシティブな状態ですし、どんな声掛けをするかは難易度が高い。だからこそ、人事領域×1対1コミュニケーションの掛け合わせは、私の強みを活かせると感じています。
経営の判断軸としては、最終的には「事業をどう伸ばすか」です。その先に、自分たちが良いと思う価値を多くの人に届けるゴールがあります。ただ、短期視点に寄りすぎないように、今はまだ定めきれていませんが、ビジョンやミッションに立ち戻りながら、長期的に「この社会で自分たちが存在する価値」を問い続けたいと思っています。
――これだけは譲れないという思いはありますか。
「一人ひとりを決して数字として見ない」ことです。人事戦略において、分析やマスの視点は必要でも、そこには必ずストーリーがあります。採用でも、候補者や入社者を、人員計画上のヘッドカウント「1」としてのみ扱われることに悔しさを感じた経験がありました。入社していただくまで、そのかたのキャリアと1年以上向き合うことも多く、そこには一人ひとりの人生があることを身をもって知っています。
その重みを忘れた経営はしたくありませんし、一緒に働く仲間にも持っていてほしいと思っています。
AI×人事経験者のハイブリッドで組織を支える
――組織づくりや体制は、どのように考えていますか。
私は、人や組織が好きです。いまは一人の会社ですが、同じ価値観を共有し、同じ目標に向かう仲間とチームで働きたい。仕事や職場のコミュニティがあることは、人生にとっても素晴らしいと感じています。
――今向き合っている事業課題は何でしょうか。
事業としての課題は明確です。休職者支援は「課題があっても予算がない」と言われがちな領域で、予算を作っていくところから始める必要があります。また「社内のことだから外に出さなくても自分たちで頑張ればいい」と捉えられやすい。採用や育成に比べ、福利厚生領域の予算は景気に左右されやすい現実もあります。
だからこそ、いきなり広告で拡販するより、まずは1年間じっくりPoCとして使ってくださる企業と実績を積みたいと考えています。現状、HRとしては4社ほど支援しており、チルログとしては従業員3,000人規模の企業が興味を持ってくださり、夏前から小さくPoCを進められないかお話しています。
体制面では、初期は私が全員面談し、サービスの解像度を上げたいです。ただ拡大局面では、人事経験者やキャリアカウンセラーの資格を持つ方に副業で対応いただく形も考えています。産業医が最適という見方もありますが、単価や供給の課題があります。
そこで、厚生労働省などが出している復職の手引き等の膨大なドキュメントをAIに学習させ、面談前の質問設計や、面談後の次回確認点、傾向・リスクのレビューを補助する。医療的知見はAIが支え、現場とキャリアに向き合える人が対話する――このハイブリッドで、スケールの道筋を作りたいと思っています。
詰まりを通して、社会の認知を変えていく
――業界の変化をどう見ていますか。
健康経営や人的資本の開示に対する、企業側の注力度は確実に上がっています。また、人材不足の流れの中で「選ばれる会社」になるために、働く人の目線でも、メンタルヘルスも含めた環境づくりはますます重要になると思います。ストレスチェックも、2028年には50人以下のの事業所も含む、全事業所義務化される流れがあります。
ただ、健康経営に取り組む現場の方々に話を聞くと、「いろいろ取り組んでいるが手応えがない」、という声も多いです。以前、休職者対応をしたことのある人事の方々230人にアンケートを取りました。外部サービスを使っている会社は多い一方、満足度は「どちらとも言えない」が最も多く、満足している方は3割以下でした。サポートが弱い、効果がわからない――そうした声もありました。
さらに、近年では、休んでいることの損失だけでなく、「プレゼンティーズム」といって、出社はしているけれど、体調やメンタルの不調などで生産性が落ちている状態の損失が大きいとも言われます。休むことが悪いという空気の中で無理をし、周囲が爆弾を抱えるようにフォローする状況は、本末転倒だと思っています。
だから私は、休職をもっとオープンにして、「休職はまた活躍するためのステップ」という認知を広げたいと思っています。
そして、休職者は1社の中では少数だからこそ、企業単体ではノウハウが溜まりにくい。記録がローカルに散らばり、担当者も変わってしまう。だから私たちがデータを集めることで、「こういう傾向があり、こう支援すると復職が進む」というナレッジを社会に還元できる存在になりたいと思っています。
人に会い、心を満たし、また仕事へ戻る
――休日のリフレッシュ法を教えてください。
リフレッシュは、いけばなです。母が華道の師範免許を持っていることもあり、社会人になったタイミングで母に教わるようになりました。型に縛られすぎず、自由にいけて最後に手直ししてもらうスタイルが楽しくて、今では月1回ほど自宅で「いけばなの会」を開いています。
前職でも社内の部活制度を使って毎月開催していて、私が退職後も仲間が部を引き継いでくれ、いまも皆がうちに来てくれます。朝から花をいけて、昼は近所でビールを飲みながらおしゃべりする。私にとっては大切な時間です。
花に向き合っている1時間は、目の前の限られた対象に集中できて、仕事のあれこれを一切忘れられます。最初には想像できなかった作品ができあがったときの「ああ」という感覚は、デトックスに近いかもしれません。
それから、人と飲みに行くのも好きです。仕事を通じて本気で走り抜けた時間を共有した仲間たちと話をすのが大好きで、週に1〜2回ほど、ファミサポさんや夫の協力も借りながら時間を作っています。
仕事は、同じ目標に向かって一緒に走る「最高の青春」だと思っていますし、だからこそ早くチームを作りたい気持ちもあります。一人ひとりの人生をただの「数」にしない――その誠実さを軸に、休職を「次の活躍へのステップ」に変えていきたいと思います。