EIBUN株式会社 代表取締役 中村 栄文 氏
沖縄のソウルフード「沖縄そば」の固定観念を打ち破り、その文化を世界に広めることを目標に掲げる中村氏。岩手から沖縄に移住し、400軒以上を食べ歩く研究の末、従来のイメージとは一線を画す革新的な沖縄そば専門店を立ち上げました。情熱的なリサーチと試行錯誤で地元客からも愛される店を築き上げた中村氏に、その独自の経営哲学と挑戦の背景を伺います。
「女性が一人でも入れる」沖縄そば屋
――御社の事業内容について教えてください。
弊社は沖縄そば一本で事業を展開しています。沖縄そば文化を定着させ、将来的には海外でも認知されることを目標に掲げています。
――事業の特徴はどのような点にありますか。
沖縄そばの文化や基本的な作り方は変えずに、「革新的なものを取り入れ、枠を広げる」ことを目指している点です。これまでの沖縄そば屋のイメージは、古民家で、卓上に一般的な調味料が並んでいて、同じようなメニューで、といった固定観念にとらわれすぎていました。
しかし、それでは沖縄そばが好きな人にしかアプローチすることはできません。もっと多くの人に届けることを考え、「女性が一人でも入れる沖縄そば屋」を最初のコンセプトとし、内装も一から設計し直しました。あえて食欲減退の色と言われるブルーの器を採用するなど、体験がお客様にとって「発信したくなる」ものになることを追求して、今までにはない沖縄そば屋を作ってきました。
震災と病気が覚悟を固めた
――創業の経緯をお聞かせください。
サラリーマン時代にインドネシア駐在を経験し、その時の経験から「海外で日本食に携わりたい」という思いが芽生えていたんです。それで、駐在終了後にシンガポールへの就職を決め、再度渡航しようとしていた矢先に東日本大震災が起こりました。地元・岩手の変わり果てた姿を見て、海外挑戦を断念しました。
しかし、復興のボランティア活動のさなか海外への思いを捨て切ることができず、ある時「自ら事業を立ち上げ極めれば、世界に出られる」と決意したんです。その際、知人から聞いた沖縄そば文化の奥深さに惹かれ、これは「世界で通用する」と閃きました。すぐさま沖縄へ飛び、400軒以上の店を食べ歩くリサーチを経て、沖縄そばの世界進出を目指して移住・創業しました。
――キャリアの中で印象的だった出来事はありますか。
オープンして8か月後、私が血液の癌(ステージ4)を患ったことです。医師に反対されながらも、なんとか1周年まではと店を続け、その後1か月入院しました。抗がん剤治療を受けながら店を休業していたのですが、復帰後の初日が最も衝撃的でした。
1か月休んだにもかかわらず、開店前から30〜40人のお客様が並んで待っていてくれたんですね。これは店がオープンして以来、最も嬉しかった瞬間でした。まだ創業1年目、認知度も十分でない時期に、これほど多くのお客様が待っていてくれた。このことで沖縄そばのビジネスに確信を持つことができたように思います。
「ここで働きたい」と思える環境を
――組織運営で意識されていることは何でしょうか。
スタッフとの間では「何でも話せるフラットな関係」を築くよう心がけています。そのため正社員に登用する人物は人間性、特にオープンに話せるような「人格者」であることを重視しています。
――採用のための指針があると伺っています。
人が集まるよう、「うちで働いていることの価値を高める」ことを考えています。例えばスターバックスのブラックエプロンのように、「うちで働いているよ」と他人に言って褒められるような会社にできればと。そのためにも私自身が積極的にメディアに露出し、会社のビジョンを発信することで、お客様だけでなく「ここで働いてみたい」と思う人材を惹きつけられるよう意識しています。
「世界がまだ知らないだけ」の野心を胸に
――今後の展望について教えてください。
当初から立てているロードマップに基づき、「創業10年以内に海外進出」を目標にしています。コロナ禍で遅れましたが、現在、ハワイでのポップアップイベントを予定しており、進出先としてはEU圏内を視野に入れています。
――その先にどのようなビジョンがありますか。
最終目標は沖縄そばを「カウンターカルチャー」として世界に定着させることです。ニューヨークやパリで話題になり、その情報が「沖縄そばが海外で人気が出た」という形で日本に逆輸入される方が、沖縄そばに対するインパクトが最も強いと思うんです。沖縄そばは「世界がまだ知らないだけ」で大きな可能性を秘めています。それを世界に広める役割は私が担っていると考えています。

